ペンギンになって考える

イヌに喰われたペンギンの身にもなってみろ

のっぺらぼう

「私の顔を見てください……」

 

 男は、肩を叩かれ背後から声を掛けられる。聞き覚えのない声だ。どうしたんだろうか。

 男は声の方向へ振り返ると、そこには目も口も鼻もない肌色の平坦な顔があった。

 

「うわああ!」

 

 男は、目の前の生物が理解できない。頭は完全に止まった。足だけが車輪のように動き、その得体の知らない生物から一目散に逃げた。

 

「あれは……一体……」

 

 初めて見る生物だ。顔のパーツは全てなく、真っ平らな顔。髪は長く、二足歩行をもしていた。そういえば、服も着ていたな……

 だとすれば、人間なのか。いや、違う。

 男が、まだ小さかったときに見たアニメを思い出した。あれは、のっぺらぼうだ。

 

 次の日。仕事の帰り道に、昨日の出来事を同僚に話した。

 

「昨日、のっぺらぼうを見たんだ」

 

 それを聞いた瞬間、同僚は大きな声で笑った。よっぽど可笑しかったのだろうか、お腹を抱え下を向きながら笑っている。男もつられて笑った。

 俺も疲れてたんだよな。あんなの夢に決まってる。同僚の笑い声は、男にそう思わせた。

 同僚は、未だに下を向きながら笑っている。独特な笑い方なやつだ。

 

「それって、こんな顔だったか」

 

 同僚は笑いながら、男にそう聞いた。男は、同僚の覗かせた顔を見る。

 

「うわあああ!!」

 

 男は、一目散に帰り道を逆戻りしながら走った。無我夢中で走った。

 息が切れ、走れなくなる。男は立ち止まり、辺りを見回した。

 同僚は、追いかけてこない。いや、あれは同僚か。違う、のっぺらぼうだ。真っ平らな顔。鼻も目も口もない平坦な顔。

 

「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

 

 マスクを着用し、キャップを深く被った女性に話しかけられる。

 男は、相変わらず息が切れている。膝に手をつき、呼吸を整えていた。

 

「のっぺらぼうを見たんです……信じれないかもしれないが……」

 

 男は、ありのままの事実を話した。この恐怖を、誰でもいいから共有したかった。だから、顔を女性に向けて、目で訴えかけた。これが、事実であるということを。

 

「信じますよ。だって……」

 

 女性は、マスクと帽子を外す。

 

「うわああああ!」

 

 男は、また走り出す。とっくに走る体力など残っていないのに、足だけが勝手に動く。

 これは、一体どういうことなんだろう。皆んな、のっぺらぼうになってしまったのか。

 まさかと思い、男は自分の顔をベタベタと両手で触った。

 眼球の丸み。乾燥しきったカサカサの唇。低い鼻だが、しっかりと山を感じる。

 男は自分に顔のパーツが残っていることを確認し、安堵した。

 男は、現実が受け入れられなかった。仕事で、ストレスを抱えていたことも事実だったのだ。

 

「これは夢だ……何かの悪い夢だ……いずれ、醒める」

 

 気づけば、男は独り言を吐きながら、自宅へと向かって歩き始めていた。

 男の歩幅は、猫よりも狭い。歩幅が、男の心情を表していた。

 

「あの!すみません!」

 

 遠くから、少年の声がする。辺りには、誰もいない。男に声を掛けているのだろうか。

 少年が、物凄い勢いで男に近寄る。少年は息を切らし、険しい顔で男を見た。

 

「のっぺらぼうが出たんです!」

 

 男は、驚く。男以外にも、のっぺらぼうを見た人がいたのだ。

 

「それって!」

 

 男は、嬉しかった。やっと見つけたのだ。悍ましい恐怖を共有できる仲間を。

 大きな声を男が発したため、膝に手をつけて息を整えていた少年が、ビクッと男の顔を見上げる。

 

「うわあ!」

 

 少年が、尻もちをつく。目は焦点が合っておらず、歯をガタガタといわして動けない。

 少年は、どうしたんだろうか。男が手を差し伸べようとすると、そのまま少年は失神してしまった。

 どうしたものか、と男は辺りを見回した。辺りには、ヒトがいない。

 ふと、カーブミラーが目に入る。

 そこには、失神した少年の前にのっぺらぼうが立っていた。