記憶忘却装置
「私、あなたのこと知らないので…」
トイレから帰ってきた奈々美は、ずっと様子がおかしかった。俺とレストランで一緒に食事をしていることが、よっぽど怖かったのだろうか。慄いた顔で、急いで出て行ってしまった。
俺は、奈々美にフラれた。一年付き合って、結婚を申し出たのに。プロポーズの返答はノーでもなく、あなたのことを知らないだった。
「拓也、久しぶりだね」
ショックで顔を埋めていた俺に、声が掛かる。この声は、夏美……?
「どうしたの、そんな浮かない顔して。というか、偶然見かけたからビックリしたよ」
夏美は、いつもの調子で明るく話しかけてくれた。大海の底へ沈んだ俺の心に、光が差す。
「おれ、奈々美にフラれたんだ。今さっきね……」
そうだったのと言って、夏美は俺の対面へ腰をかけた。奈々美が座っていた席に。夏美は、他愛のない話を始める。俺にとっては、これが大きな救いだった。
奈々美と夏美とは、学生時代のバイト仲間だった。卒業後も、二人とは仲良くしていた。そのうち、奈々美とは個別に遊ぶようになり、カップルとなった。
それからというものの、夏美とは連絡も疎遠になってしまった。
気づけば、夏美と二時間ほど話していた。見たい映画も一致し、また会うことを約束した。
それから、一年半後。俺は、夏美に結婚を申し出ようとしていた。
クリスマスの夜。夏美をレストランに呼び出し、俺は夏美にプロポーズをした。しかし、夏美は下を向いたまま、何かを考えている。俺は、また失敗したのだろうか。トラウマが蘇る。
「私、あなたに言わなければいけないことがあるの」
意を決したように夏美は顔を上げ、俺にそう言った。
「あなたが、奈々美にプロポーズした日。実は、記憶忘却装置を奈々美に使ったの。私、ずっと拓也のことが好きだった。でも、拓也が奈々美にプロポーズすると知って……奈々美がトイレに行ったときに、使ってしまったの」
記憶忘却装置。懐かしい響きだ。五年前ほどに、とある会社が記憶忘却装置というものを開発した。名前の通り、ヒトの記憶を忘れさせることが出来た。
その装置は、ボールペンのような細長いボディだった。しかも使用方法は簡単で、時間をダイヤルで調節し、ボタンを押すだけ。ボタンを押した瞬間に、フラッシュが焚かれる。そのフラッシュを見た人が、その瞬間より前の設定された時間分を忘れてしまうのだ。さらに、分単位から最長二十年まで設定できた代物だ。
当初は、軍事目的で開発された。しかし、その利便性から一般に流通するようになった。一般と言っても、持ち主は金持ちか特殊な職業ばかりだった。
そのため装置は、良いように使われなかった。例えば、死体を運搬するにも運転手の記憶を消してしまえば、情報漏洩のリスクは少ない。装置は、犯罪目的で使われることが多かった。
当時の政府は、すぐさま装置の製造や所有の禁止をした。ましてや、一般人が持っているはずもなかったので、奈々美のときにはそれが使われたという発想が思い付かなかった。
俺は涙を浮かべる夏美に、なぜそれを持っていたのかと聞いた。
「お父さんが、開発担当だったの……」
今にも消えそうな声で、夏美は答えた。
しばらくの沈黙の後、俺は夏美に改めて求婚した。今の俺に必要なのは、夏美と過ごした記憶だ。そしてこれからも、夏美と過ごしたい。奈々美には申し訳ないが、夏美との将来を選んだ。
夏美の返答は、俺を知らないではなく、イエスだった。
それから、五年後。俺たちは、娘と三人で暮らしていた。幸せな日々。毎日を夏美と一緒に噛み締めていた。
「今年は、三人で大掃除をしましょう」
夏美が、笑顔でそう言った。娘も、もう三歳だ。そろそろ、倉庫の片付けなどを一緒にしたい。
大掃除当日。倉庫の中で、三人は会話が絶えなかった。手よりも口が動く。だが、それでいいのだ。これが幸せそのものじゃないか。
「パパー!なにこれー!?」
娘が、ボールペンのようなものを持ってこっちに来た。
まさか、それは……!なにかと怖くて捨てていられなかった装置……!
ダイヤルが最大限に回ってることを確認した瞬間、娘はボタンを押した。
気がつくと、俺はどこかの家にいた。学校に行かなければいけないのに、俺はどこにいるんだ。
当たりを見回すと、女ーーというか、おばさんーーが、俺の名前を呼びながら肩を揺らしてくる。なんで、俺の名前を知ってるんだ。きみが悪い。
覚えのない女と女児の声が、俺の頭に響いていた。