疫病
世界中で疫病が流行っていた。世の中は大混乱に陥り、人々は心身共に疲弊していた。
疫病が流行って二年が経つころ、あるベンチャー会社が新薬の開発に成功した。この薬は、疫病に大いに有効であった。
その薬のおかげで、人々は救われた。見えない疫病源と戦う日々。ヒトとの接触さえも許されなかった日々からようやく解放されたのだ。
世界中が戻ってきた日常を噛み締めた。
「棚戸くん、新薬が開発できたのもキミのおかげだよ。キミが地球のヒーローと言っても過言ではない。多くの命を救ったのだ」
昼下がりの社長室に、明るい声が響く。新薬を開発した社長が、白衣ではなく黒衣を着ている若者を讃えていた。
棚戸という名の若者は、新薬開発の主軸を担うチームのリーダーであった。
棚戸は、その会社に二年と半年前にやってきた。その一ヶ月後に、新型のウイルスがある国で発見された。その後、半年間かけ疫病は世界中に蔓延し、人々を苦しめた。
社長は新型のウイルスが発見された際に、すぐに新薬開発の命令を社員たちに下した。それが功を奏して、どの製薬会社よりも早く新薬開発に成功したのだ。
しかし、この裏には棚戸の助言があった。棚戸は、入社してすぐに社長に直訴していた。
「このウイルスを見てください。これが流行ったら、どうなるか分かりますよね?今すぐにでも、こいつに有効な薬を開発するべきだ」
棚戸は、作成した資料を見せながら、社長に演説した。だが、社長は半信半疑だった。
棚戸の言うように、このウイルスが流行したら大変なことになる。しかし、肝心な根拠が薄い。どこに、こんなウイルスが存在するのだろうか。既存のウイルスが突然変異しても、こんな脅威的な形質にはならない。
棚戸は、来る日も来る日も社長室に来ては、社長を説得し続けた。まるで、未知のウイルスに対する薬を開発するがために、この会社に入社したようだった。
社長は、段々と苛立ちを感じていた。
「変わったやつだ。ただでさえ、人手が足りてないのに、これ以上無駄な時間を使わないでくれ。それと会社指定の白衣を着てくれ。黒衣だと目立ってしょうがない」
しかし、棚戸の言う通りのウイルスが発見されることとなる。世界中の学者が驚いた。こんなウイルス、どこに潜伏していたのだろうか。
一番、驚いたのは社長だった。まるで、棚戸は予言者だ。
社長は、社内で一番新型ウイルスに詳しいであろう棚戸に、開発チームのリーダーを任せた。そして、棚戸は本当に新薬を作り出してしまった。
もはや、棚戸は神の領域だった。
世の中は落ち着きを取り戻したが、社長は更に忙しくなった。名が売れたのだ。
夜の十時、会議を終えた社長が帰ろうとしたところ、一人の社員が机に向かって熱心に本を読んでいた。社長は、その社員に近づくと棚戸であることが判明した。
「棚戸くん、キミは真面目だ。こんな時も勉強だなんて」
「社長、これも人類のためです。いや、結局は我々のためにもなります」
なんて真面目なやつなんだ。社長は感心し、気持ち良く帰路に着いた。
翌朝、社長は誰よりも早く会社へ向かう。しかし、昨夜と同じ場所に棚戸が座っていた。しかも、本を読んでいる。
「棚戸くん、また本を読んでいるのかね。それも、経済本を。まさか、夜通し読んでいた訳じゃなかろうな」
「もう朝でしたか。気付かなかった」
社長は冗談で言ったつもりだったが、すぐに真顔になった。
「棚戸くん、今日は帰ったらどうだ。寝なければ、いい仕事も出来ないぞ」
「心配いりませんよ。私は、寝る必要がないので」
「何を言ってるんだ、キミは。人間、寝なければ死んでしまう」
「その点も心配いりません。私、神なので」
棚戸は笑いながら、そう言った。たしかに、神業を見せてきた棚戸だが、幾らなんでも傲慢だろうと社長は思った。
それから、何日も連続して棚戸が本を読んでいる姿を見かけた。しかも、同じ場所でだ。棚戸は、一度も帰らずに本を読み続けているのだ。
「まさか、本当に寝ずに読み続けているのか?本を」
「えぇ、今度は大恐慌が来る。その前に、経済の知識を入れておこうと」
「また、予言か。キミは一体何者なのかね。私は、キミが人間だとは思えなくなってきた」
「ですから、社長。私は、神です。死の方のですが…」
棚戸は黒衣のフードを被り、そう言った。まるで、死神だ。
「疫病神が調子にのって、人間界に新型ウイルスをばら撒いたんです。今度は、貧乏神だ。大不況になれば、自決する人も増えるでしょう」
社長は、呆気に取られている。
「困るんですよ、人間たちが寿命を全うしてくれないと。我々の商売も上がったりだ。だから、新薬を開発したんです」